「おくりびと」感想。

 

 

 

今回は「おくりびと」という映画の感想言いますね。まあ前の映画なんで今更感はありますけど、見ていいと思うものはいいわけですし。実際高く評価されるものはそれだけの良さがあるということです。というわけで、まずはWikipedia先生にお話しを伺いました。

 

『おくりびと』(Departures)は、2008年の日本映画。滝田洋二郎が監督を務め、第81回アカデミー賞外国語映画賞[2][3]、および第32回日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞した

とのことです。アカデミー賞とってますね。ちょっと調べてみると、この年のアカデミー賞は他の作品が政治的・社会的風刺をはらんでいたものが多かったようです。その中では「おくりびと」という作品は納棺師という職業を通じて人を描く作品。より映画を大衆的なものに引き戻そうという狙いがあったのでは、なんてのがありました。

 

まあ能書きばかり言っていても仕方ないですから、感想書きます。

ひとまず映画の流れを書いてみると、

「主人公である大悟は、勤めていた楽団が潰れてしまいチェリストを辞めることになる。故郷の山形に妻とともに戻り職場を探していると、『NKエージェント』という会社を見つける。旅行会社のようにも思われたそこはどうやら葬儀屋らしく、納棺をすることになってしまった。納棺という職業をすることに対して、妻・かつての友人などは反対する。納棺師という仕事を通して『死』に触れ、様々なことを考えた大悟はどのような決断を下すのか。愛と涙のヒューマンストーリー」て感じですかねえ。

なんで最後安っぽい感じにまとめちゃうんだろうなあ。自分でわかってるなら改善しろよ、ですけど。

じゃあこれに対して、メモとってたんで、僕の着眼点を述べていきます。

まずは変化。かつてはチェリスト→今は納棺師、という変化が大悟には起こります。映画の途中までは納棺師という自覚も強くは芽生えませんが。あくまでも、「死」を扱う職業への世間の風当たりの強さを知り、妻に「それを一生の職業とできるのか」と聞かれたときも、答えることができません。

ただ、この作品、ちょくちょく大悟がチェロをひくところが入ってくるんですよ。山形の大自然を背景に、大悟がチェロを弾く。これはどういうことを意味しているんでしょうか。

ここで流れるチェロの棘、これが実は「おくりびと」のmain themeとなっています。随所でこの音楽が流れるんですが、過去の記憶を想起したり、死生観を見つめたり、様々な死の在り方に出会ったり、石文の話がでたり、そんな場面なんです。

やっぱり大悟にとっての成長や、内面的な部分で流れていると結論づけていいかもしれません。表現としては映画において重要なところにテーマを持ってくるのは必然なので、当たり前なのかもしれませんね。(音響係はまあそうしますよね)

あとはばんばん気になったとこいってきますか。

〇旧友の「もっとマシな仕事につけや」という言葉、また妻の「触らないで!汚らわしい」という言葉はどういう意味を持つのか・その社会的背景

 

何も調べてない状態での僕の考えは、えた・ひにん的思想があるのかな、ということです。古来より、死に関わる仕事って差別を受けてきましたよね。なおさら主人公の故郷は知り合いの話がすぐ周りに広まって噂になっていくような田舎だそうですから、その風潮が強く残っているのもうなずけます。

「人の死を飯のタネにしてる」というような、別にその仕事についている人が他人の死を願っているというわけではないですが、人の死がなければ納棺師の仕事はないわけで。親族の死を味わう側からしたら、納棺という行為に対してお金を取ることにぬぐい切れない嫌悪感が芽生えるのかも。

 

住職さんなんかはそれとはまた別のベクトルですよね。なくなった方の鎮魂とか、そういった部分が大きい気がします。むしろ社会の中では丁重に扱われる職業だと思います。

さて、ここまで自分なりの意見を述べたうえで、次はいろいろ調べてみました。

まず、死に関わる仕事が汚らわしいというようにとらえられるようになったのは、はるか昔弥生時代くらいのころらしいです。かつては死体と共にある生活を送ってきたのが、死体を墓地で葬るようになった。すると、普段の生活でほかの動物の死体を処理することはあっても、同じ人間の死体に触れる機会は少なくなったわけです。すると、墓地に大量の死体を見た際に、本能的に恐怖を覚えるようになった、という一説があります。

また、先祖でなく神を神聖視するようになったことで先祖のための儀式が消失し、そこから死体が恐怖の対象となっていったというような見方もあります。

日本においては特に、仏教では殺生が嫌われ、神道では血が嫌われたということからも、と殺業や死体を扱う人々自体が忌み嫌われることにつながったのだと考えられます。これは今の日本にも依然として残っているえた・ひにん差別/部落差別へのメッセージ的意味合いも持つのかもしれません。

どんな仕事であってもそれに真剣に取り組んでいる様子を見て、何かしら伝わるものがあるはずですから。その仕事が存在している以上、誰かがその仕事をやらなくてはいけないってこともありますしね。

では次です。

〇白子を食べることの意味

ある雪の降る日のこと社長とNKエージェントの最上階で白子を食べるシーンです。社長が初めて納棺をしたのは自分の奥さんが死んだときだと語ります。そして、白子を箸で持ち上げ「これだってご遺体だよ」というのです。

確かに言われればその通りで、私たちは普段いろいろな生き物を食べて生きています。生き物を殺さずに生きていこうとしたら、ベジタリアンにでもなるしかない。そういった、当たり前で普段は意識しないようなことを社長は語るのです。

しかし、この言葉はやはりと殺業など、同じような生業の人ももつような思考なんじゃないかな、と思います。私たちが自身で生き物を殺す機会は、文明が発達するにつれなくなっていきました。昔は当たり前のようにマンモスを狩るとか、家畜をしめるとか、そういうふうに関わっていたのにです。そしてその仕事が忌み嫌われるようになってしまった今でも、その仕事がなくてはならないものなんです。

「旨いんだよなあ、困ったことに」

僕の心には、この言葉が印象に残りました。食べまい、殺すまい、と思っても、おいしいものはおいしい。どうせおいしく食べるのなら、もっとおいしくしてやったほうがいい。「困ったことに」というのは、納棺の仕事に関わる中での社長の中でのかつての葛藤の印だったのかも。

そしてその言葉が大悟には強く影響を与えたようにも思います。「一生の仕事にできるのか」「一生あの人みたいな仕事をして償うのか?」「もっとマシな仕事につけや」世間から投げかけられる言葉はどれも冷たいものです。その一方、大悟の中ではいまだ言語化はできていないものの納棺という仕事を自分の一生涯の仕事にしようというような考えが生まれてきているのです。

これが社長の言葉により、パズルのピースがはまったような感覚を覚えたとしても不思議ではありません。この仕事を続けるべきかという葛藤・もやもや、そんなものに対する答えらしきものが見つかった、というような感じですね。

人間も生き物である以上、死から逃れることはできません。ならその「死」を、できるだけ美しいものにしたい。納棺は故人と別れる(=棺に納める)までの最後の作業です。それから火葬場へも行きますが、「おくりびと」では納棺で死に化粧をし、別れを行っていました。要は親族や親しかった人の間でその個人の「死」を受け入れる儀式です。確かに、法律的にはもう死んだかもしれません。医学的には医者が死を告げたかもしれません。しかし家族の中でそれを受け入れられるかどうかはまた別の話です。そして、その別れの瞬間だからこそ、遺体をより美しく、よりきれいにするというのが納棺師の仕事なのかもしれません。

 

〇かつてと今の葬儀や死へのかかわり方の違い

おくりびとでは田舎の地域、また納棺師が呼ばれる家ということで、家において家族と故人の別れは済まされていました。しかし式場や葬儀場、火葬場と死との距離が遠くなっている現在、むしろ納棺師との関わりはほとんど無い人のほうが多いと思います。かつては家ぐるみだった。今では、その死へのかかわり方は、式場に任せたうえでの一連の作業になってしまっているのでは?

私はいまだ喪主を経験したことはないですが、祖母の喪主を終えた祖父は、葬儀の準備で悲しむどころの暇がなかった。といっていました。こうしてル死後の行事がルーティン化されることは一概に悪いこととは言えません。今の社会では人が死んだからといって何日もずっと休んでいることなどできないからです。

その意味では、いろいろとやることがあって、その対応に追われ、流れるように死後の別れまでを済ませるというのは社会としては「能率的」と言えるでしょう。ですが、その周囲の親族の心情はどうなのか。「悼む」行為が形骸化してしまっている現代、より精神的な死がないがしろにされ、社会的な死が重要視されていく。

その中でおくりびと、納棺師という職業が取り上げられたというのは大きな意味があるともいえます。

〇日本における「死」

これには宗教を考えていかなくてはいけませんね。こと教育においては宗教に触れるのはタブーとされていますが、自分から学び、評価し、とはいっても利益の面から見るだけでなく自身の価値観・心理からも納得し、そうして選び取った自分の生き方ならそれは宗教として意味があるものだと思います。

僕にとっては宗教って、自分の中での確固とした価値観とか、信念とか、そういうものに近いような気がするんですよね。まあこれは完全にマイ定義ですが。

せっかくだし「宗教」という言葉の辞書的な意味も調べてみます。

 

ブリタニカ国際大百科事典によると、

 

ラテン語の relegere (再読する) ,または religare (つなぐ) に由来するとされている。日本語の「宗教」は古くから漢訳仏典にあったものを,明治に religionの公式訳語として採用して以来広まったもの。一般的にいえば,宗教とは,人と自分の神聖とみなすものとの関係をさし,神 godはその人格的または超人間的な象徴にすぎない。この「神聖」という概念を提出したのは R.オットーである (1917) 。しかし何を聖とするか,またその象徴の範囲をどこにおくかで定義の仕方は種々あり,信念を重視するシュライエルマッハーの「絶対的依存感情」,E.B.タイラーの「霊的存在への信念」,また R.R.マレットのマナの研究による超自然的・神秘的能力に対する畏敬,または P.ラディンや É.デュルケムの社会的団結力のシンボルとしての価値を重視する見方などがある。しかし,宗教は,単に個人の宗教感情でも社会的・文化的産物でもなく,その双方を基に形成される人間の行為として成立しているもので,全人間的な把握を必要とする。伝統的社会では,単に神話やマナとして存在していることもあるが,文化の展開につれ,教義や儀式が体系化されている。

デジタル大辞泉によると、

religion》神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。古代から現代に至るまで、世界各地にさまざまな形態のものがみられる

 

大辞林によると、

① 神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。
② 経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから、ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教、さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。 〔「哲学字彙」(1881年)に英語 religion の訳語として載る〕

日本大百科全書によると、

世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。この信念は、生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期待されている。また、信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。

まあこれを掘り下げてくと「宗教とは何か」になってしまいそうなのでこれはまた後で掘り下げたいと思いますが、とても興味深いですね。特に、大辞林の「積極的な価値」や日本大百科の「生き生きとした実在感をもって」ですか、この辺りが面白いです。自分から感情と、論理と、そんなものに説明づけようとするんですね。

 

ともかく、日本の宗教でした。やはり日本ではほとんどが神道と仏教なようです。神道のほうが少し多いようですが、おおむね半々くらいととらえてよいでしょう。

では、その2つにおいて死とはどのような位置づけなのでしょうか。

①神道

死を、死者自体とその周囲から2つの視点で見てみます。(これは別に神道だからうんぬんというのではなくよりわかりやすく解釈するためです)

まず死者自体について。彼等は、死ぬと幽冥(かくりょ)という場所に行くそうです。そして、あちらからはこちらの様子が見えるらしく、先祖として子孫の様子を見守るのです。「あの世」と「この世」は子どものころ聞いたことがありますよね。先祖崇拝が強い日本らしい考え方の源流にはこんな背景があったのですね。

そして死者の周囲からしたら、死は穢れというような認識があります。ただこれは、死ぬこと自体が穢れたこと、ということではないです。穢れの語源は「気枯れ」、つまり人が死ぬことで周りの人の元気がなくなる、生気が失われる、そのことを穢れと表現したようです。

そして死後の葬儀は、納棺、火葬、埋葬というように流れ、納棺というキーワードも入ってます。

 

②仏教

死者が極楽浄土にいくというのはある時期から始まった考えですが、宗派によっていろいろと異なるようです。

死者の周囲、葬儀は、通夜、葬儀、火葬、埋葬というような流れですね。また、仏教には輪廻転生の考え方があるので、死もひとつの通過点に過ぎないという認識があるようです。

まあこんな感じで、しりすぼみになってしまった感も否めませんが、気ままに感想でした!しゆー。


eipin219

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